[ドイツ語(1)(2)(3)(4)]
結局ドイツ語の話というよりもクライストについて書いてばかりでした。
若いうちは「ドイツ語の勉強」に夢中になったりもできるわけですが、実際には「ドイツ語の勉強」というものは存在しません。ドイツ語で何を読みたいか、書きたいか、考えたいか、というレベルでしか、言葉にかかわりつづけることはできないからです。「ドイツ語の勉強」をするのではなく、実際にはクライストを読んだり、映画をみたり、環境問題について調べたりするわけです(その意味で、いわゆる「ドイツ語の勉強」というのは、ごくごく初歩的なドイツ語学の研究ということになるでしょう)。だから自分の興味と言語が結びつくことが語学上達の一番の近道です。逆に言うと、興味と言語が結びつかなければ外国語を始める必要など全くありません。
かくいうわたし自身も、まだまだ中途半端にしかドイツ語と付き合えないわけですが、しかし言葉との向き合い方ができてきたという気は、なんとなくします。言葉と向き合うというのは非常にたいへんなことです。これはおそらく、どの分野でドイツ語を学んでもいつかは辿り着くようなものではなく、クライスト、カフカ、ベンヤミン、シュレーフ、イェリネク、ミュラーなど、ドイツ語との付き合いにおいて幸運な出会いが重なったおかげだと思っています。
クライストについて書いたことは、書きつけたのは初めてだったにせよ、ほとんどがこれまでにすでに考えたりメモしたりしていたことでした。しかし書いてみると、やはりたいへん大事なひとだとあらためて思います。なので、いつ書けるかもどこに発表できるかもわからない新たな「クライスト論」の構想メモをつくって、今月の「ドイツ語」を終えたいと思います。
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クライスト論の構想
クライスト作品の言語と内容と構造を、1)時間論として、2)歴史論として、3)演劇論として検討する。
この三つは互いに不可分である。
西洋の演劇は、歴史哲学および政治哲学の見地から語らなければならない。演劇は自律的な領域ではない。歴史哲学的、政治哲学的な場である。
それは逆に、歴史哲学および政治哲学も演劇とともに語ることができる、ということを意味する。
ヘルダーリン、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ハイデガー、シュミット、ベンヤミン、ブレヒトを研究する。とりわけ、空間と時間の思索について。空間と時間の構成、すなわち秩序について。
クライスト研究は実用的に役立つ理論を提供することを目的とする。
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