2010年10月9日土曜日

翻訳論(2)

翻訳に関してわからないこと

 先週紹介したハイナー・ミュラーの翻訳論にわたしは賛同するが、実はわからないことも多い。というより、わからないことだらけだ。

 たとえば、ミュラーは「逐語的 wörtlich」な翻訳を評価するが、しかしまず「逐語的」とは何か。「逐語訳」は誰でもできる。文法を知り辞書があればできる。コンピューターでもできる。だがミュラーの評価する翻訳はそうしたものではないだろう。

 あるいは、「オリジナルとは何の関係もないような形式に押し込めようとしていない」翻訳をミュラーは尊重する。しかし「オリジナル」とは何か。「オリジナル」と「翻訳」は明確に区別されうるのか。常にされてきたのか。「オリジナルとは何の関係もないような形式に押し込めようとしていない」翻訳ということは、むしろ「オリジナル」と「翻訳」が「形式」において溶け合うような事態がありうるということか。それをミュラーは擁護しているのか。翻訳が「全体性」に拘らず、「完全なテクスト」であることに固執しないとは、そうした意味か。

 さらにミュラーは、「語(単語)」と「形式」にこだわり、「文」の「意味」を遠ざける。「意味」はなぜ斥けられるのか。「語」と「形式」を復権させようとするのはなぜか。翻訳が言葉の「奈落」を埋めてしまわないことがどうして重要なのか。

 これらすべての問いを考えるために、「翻訳は近代の問題である」という仮定から出発してみようと思う。もちろん近代以前にも翻訳行為はあった。しかし現在のように「オリジナル」と「翻訳」、「外国語」と「母語」、「形式」と「意味」、「文」と「語」といった対立のなかで「翻訳論」が思考されるためには、ミシェル・フーコーが『言葉と物』で論じた「近代的な知の配置」が不可欠であるように思われるのである。つまり、複数の言語が水平的に比較されうること、そしてなによりも、「客体としての言語」が出現し、それによって言語が「中性化」され、何らかの内容の純粋な「媒介」として機能しうるようになったこと。それらが決定的だったはずであり、それらは歴史的な現象なのである。「翻訳」、それはひょっとすると、「文学」と同じくらい新しい日付をもつものなのではないか。

 そのように考えると、「逐語的」に関しても、まさに近代の産物たる「文法と辞書」とどう付き合うかが問われるだろう。(だがこれはとても難しいことだ。)「文法的に正しい」とはそもそもどういう事態なのか。あるテクストにあらわれるひとつの言語の「語」が、「辞書」に記載されている別の言語の「語」に翻訳されてよいと考えられている、そのような状況はいかにして可能になっているのか。翻訳の可能性を深めるためにも、わたしたちにとって「自然な」翻訳行為がどの程度歴史的な「知の配置」の上に成立しているかを検証する歴史研究が必要だろう。

 「ある時代がもつ歴史的感覚の程度は、その時代がどのように翻訳をし、どのように過去の時代や書物の吸収同化に努めているかという点に照らして、評価することができる」(ニーチェ)。わたしたちの翻訳の存在あるいは不在は、歴史とともにしか思考されえないのである。

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