2010年10月14日木曜日

経済学(2)

 ミシェル・フーコーの『言葉と物』によると、近代の経済のあり方が近代の「歴史的時間」を導入した。その分岐点はリカードであるという。

「リカード以後、労働は、表象との関係においてずれを生じ、表象のもはや力をもちえぬ区域におかれ、それ固有の因果性にしたがって組織されることとなる。

物の製造(あるいは収穫もしくは輸送)のために必要とされ、その価値を決定する労働量は、生産の諸形態に依存する。労働の分業化の程度、道具の量と質、企業化の自由にする資本の総量と工場設備に投資した資本の総量、そうしたものに応じて生産は変様させられるであろう。したがって、ある場合には生産は高価なものとなろうし、べつの場合にはそれほど高くはつかないだろう。

しかしながら、すべてこうした場合、そのような経費(賃金、資本と所得、利潤)は、すでに完了しいま新しい生産に適用されようとする労働によって決定されるのであるから、そこには、生産系列ともいえる線状で等質の大きな系列の誕生が見られるにちがいない。

どのような労働でも結果をもち、結果は何らかの形で、その労働が経費を規定している新しい労働に適用され、新しい労働はそれで、また何らかの価値形成にかかわっていくのである。

このように系列化された集積こそ、古典主義時代における富の分析においてもっぱら作用していた相互的諸決定を、はじめて断ち切るものなのだ。それは、まさにそうすることによって、連続する歴史的時間の可能性をさえ導入した。[…]経済はその実定性において、もはや相違性と同一性の同時的空間にではなく、継起的生産の時間につなぎあわされるのである。」

物をつくって売る→利潤が出る→投資する→より多くのorより質の高い物をつくって売る→利潤が出る→投資する→…以下繰り返し、というような「線状」の「生産系列」の誕生が、近代の「歴史的時間の可能性」を導入した、というのである。それは線状で連続的な「歴史的時間」である。線状で連続的な歴史的時間の観念もまた、ある文化や地域に恒常的なものではなく、歴史的産物とされるのである。

 経済学を学ぶと、まず「実証的分析」と「規範的分析」の区別を知る。「実証的分析」とは、「価値観を含まない純粋に論理的な分析」であり、「現実はどうなっているか、論理的にどうなるか」の分析である。「規範的分析」とは、「ある価値観のもとでどう問題が解決されるべきかの分析」であり、「どうあるべきか」の分析である。そして経済学の課題はまず「実証的分析」であるとされるが、フーコーであれば「価値観を含まない」「純粋に」「論理的な」分析など存在しないと言うだろう。「価値観を含まない純粋に論理的な分析」という考え方がすでにひとつの価値観であるし、経済学がもちいる「財」「稀少性」「労働」「資本」「貨幣」といった概念も、それぞれの歴史性をもっている。さらに経済をいかなるプロセスとして想像するかもまた、歴史的な「知の配置」の中でしか生じえないのである。

 経済のあり方、あるいは経済に対する考え方がひとびとの時間感覚や歴史観にまでつながっているとするなら、現代においてそれはどうなっているだろう。経済と時間、経済と歴史の結び付きは、いまだに近代の枠組みにとどまっているのだろうか。あるいはすでに経済に対するあらたな考え方と、それに影響されたあらたな時間感覚、そして歴史に対する態度がひそかに生まれているのだろうか。線状で連続的ではない時間と歴史が、いつのまにかわたしたちを覆っているのだろうか。

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