大地の揺れと言葉の揺れ
ハインリヒ・フォン・クライストの「チリの地震」は、「地震の物語」であると同時に、「言葉の地震」である。
「チリの地震」において、地震は上下の運動として表現される。いわく、「町の大部分が沈んでしまい」、「通りは地中へ落ちた」、「町が沈んでしまったのを目にした」等々。
ところが、こうした描写以外にも、クライストは文中のいたるところに「上下」の運動をしのばせている。それは冒頭から明らかである。
チリ王国の首都サンチャゴで、1647年に大地震がおきたとき、幾千の人間が死んだなか、ある罪に問われていたスペイン人の若者、ヘロニモ・ルヘラは、牢獄の柱のそばに立ち、収監されていたが、首を吊ろうとしていた。
ここで「死んだ」と簡潔に訳した部分は、原文では「Untergang finden」という表現が使われている。Untergang(ウンターガング)という語は「死、破滅、没落」の意だが、もともとは「下へ行くこと、太陽や月が沈むこと unter-gehen」である。したがってここでは、①「ひとびとが死んだ」という「意味」が伝えられるだけでなく、②「下へと-沈んだ Unter-gang」という地震の「イメージ」が同居することによって、③Untergangという語が、「下へ行くこと」と「死」との古い結び付きを、説明的にではなく、いわば意味とイメージとの「衝突」として実感させる。それはまた同時に、「Untergang」という語が、「ひとびとが死んだ」という意味と「下へ行った」というイメージとで二重化されることでもある。それによって語は、「意味」にも「イメージ」にも落ち着くことができない、いわば「揺れ続ける」言葉になっている。「チリの地震」は、「大地の揺れ」としてだけでなく、「言葉の揺れ」としてもあらわれるのである。
もう一箇所、検討しよう。
そして実際、この恐ろしい瞬間の数々に、人間たちの現世の財産はすべて地に落ち、自然は埋め尽くされそうだったが、人間精神そのものは、まるで美しい花のように、開花するかと思われた。
ここにも「上下」の運動がある。原文では、「地に落ちる zu Grunde gehen」=「底-まで-行く」=「落ちる、没落する」と、「開花する aufgehen」=「上へ-行く」=「太陽や月が昇る、花が開く」が対比されている。しかも、財産が「地に落ちる」という「意味」は地震で家財が地中に沈んだという「イメージ」によって二重化され、花の「開花」と人間精神の「上昇」は「aufgehen」という語の中で二重化される。やはり言葉は意味を伝えるだけでも描写するだけでもなく、揺れている。ロラン・バルトなら、「ざわめいている」と言うかもしれない。
先週との関連でいえば、こうした「言葉の揺れ」もまた、「時間」と関係しているように思われるのである。揺れる語は進ませる語ではない。進ませようとしつつ、立ち止まらせる。「意味」としての水平方向の力と、「イメージ」としての垂直方向の力がつりあうことによって、中断、切断、宙づり、なんと呼ぼうとも、運動と静止が同時に達成され、時間の進行と停止が同時に可能となり、奇妙な「言葉の時間」が生じるのである。クライストはまさにそうした「衝突」あるいはその結果としての「均衡」に憑かれた者だった。
ところで、クライストのこうした表現を可能にしているのは、ドイツ語の「分離動詞」とそこから派生した名詞である。「分離動詞」とは、前置詞・副詞と動詞が結びついてひとつになった語であり、「上へ-行く」「下へ-行く」「起き-上がる」など無数にある。「分離」と呼ばれるのは、動詞として用いた場合、両者が「分離」して文中に場を占める(動詞は文中第二位、前置詞や副詞は末尾)からである。
クライストの分離動詞の使い方やその翻訳についても考えるべきことは豊富にあるが、それは来週以降にしよう。「衝突」と「均衡」についても次回より詳しく論じることとしたい。
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