2010年10月1日金曜日

ドイツ語(1)

 20024月、慶応大学文学部初年度の一般教養課程を終え、専門課程はドイツ文学科を選択した。

 和泉雅人教授に教わらなければ、これほど長くドイツ語に関わることはなかったと思う。和泉先生は最初の授業で、「独学で大学教師よりドイツ語ができるようになる方法」について話した。以下のカリキュラムである。

①阿部賀隆「独文解釈の研究」(郁文堂)×3
②横山靖「独文解釈の秘訣」(郁文堂)×Ⅰ・Ⅱ巻を各2
③関口存男「新ドイツ語大講座」(三修社)×中巻・下巻を各3

これは翌年の春までに終えたが、むしろこれを機に関口存男(1894-1958)の語学と文章に触れたことが大きかった。言語、あるいは一切の事物と向き合う彼の姿勢を再確認し、ドイツ語に関する論考の導入としておきたい。

勉強と戰争とは甚だ相似たものがあります。昔は、國家總力戰なんてものはなかった。今は勝つためには凡ゆるものを動員します。科學も底の底まではたく、思想も女の貞操(スパイなど)も、苟しくも利用価値のあるものは全部動員します。思想と女の貞操だけは遠慮して動員しなかつたなんて國があつたら、その國は、思想と女の貞操を動員した國には覿面に負けるというのだから、おそろしい世の中です。
ところが、勉學の世界となると、このおそろしい現實の可能性に對してハツキリした認識を以て臨み、最後の最もエゲツない手段に訴えても人に勝つという心構えでもつて自分の心境をスツキリと割り切つてしまうだけの冴えた頭を持つている人が存外すくない。すくないだけに、虚を衝いて進出するには絶好のチヤンスです。
[…]
クソ勉強は、いろいろな意味に於て強姦に似ています。[…]少くとも多少なりとも恥を知る人間ならば、考えただけでも眼をそむけたくなるような、無理無體の細部に分けて考えられる點も似ているし、意圖の如何にかかわらず後に儼然たる結果が殘って、その結果がそれ自體の理法によつて生長していくという點もそつくりだし、そもそも、たつたそれだけの事で、それが後になつてそんな重大なことになるという事實關係が、當事者自身はもちろんのこと、第三者にも、學者にも全然わからないと云う點もそつくりです。
[…]
あたりまえで行つたのでは結局あたりまえにしかならない。おまえだけは何か人のしないへんな事をせよ:汝自身の頭を強姦せよ!
関口存男「くそ勉強に就て」(1954年)

 「ちょっとやって見る」とか、「手段としてやる」なんてやり方はありません。「やる」以上は「やる」。やるに二つはありません。
 […]
 獨逸語は持久戰です。まづ腰をおろして考へませう。[…]坑道を掘つて敵塞の「下」に迫りませう。大岩層に逢着したら、コツコツと、一片また一片と岩を崩して行きませう。相手は岩ですよ。敵ではありません。敵だの勝利だのと云つたやうな事はもはや當分の間問題ではありません。それはもはや戰争ですらもありません。仕事です。涯しなき作です。無限の穿掘です。試練です。凝視です。根くらべです。
 目標は無限の彼方にあります。そして鼻の先は岩です。そして岩の背後は岩です。そのまた背後も岩です。岩、岩、岩、岩、當分は岩です。
 堀りませう!
関口存男「語學をやる悟」(1931年)
いずれも『関口存男の生涯と業績』(三修社)

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