経済学を勉強したら面白かった。しかし個人的な体験としてのその面白さは、いくつかのレベルに分けて考えることができるので、まずはそれを整理してみたい。
第一に、「世の中」のことがこれまでよりも少しわかった気になれた。たとえば、「金融緩和政策」や「拡張的財政政策」といった、新聞やテレビにもあらわれる言葉たち。「景気回復のためにするナニカだろう」という曖昧な理解ではなく、いかなる条件のもと、いかなる目的で行い、いかなるプロセスを生じさせ、いかなる結果をもたらすかまで、経済学の理論として学ぶことは、「世の中」という複雑な機械内部の歯車の噛み合わせを確認するようだ。それによって少し仕組みがわかったような気持ちになると、なんとなく「世の中」という機械自体も楽しくかわいいような気がして気分がよかったのである。
第二に、経済思想史というものが、いわゆる「歴史」よりもずっと面白かった。戦争や条約の締結、領土の拡張といった出来事の歴史や、あるいは偉人たちの固有名からなる歴史に比べて、著名なところではハイルブローナーの経済思想史などは、より時代時代の「生活」に密着している(経済活動を扱う以上そうせざるをえない)。そしてだからこそ、現在の感覚や考え方にとって新鮮で生産的な「断層」を見せてくれる。たとえば、「生計を立てる」という観念がなく、金を得て物を買うために仕事をするという考え方が存在しなかった時代があった。あるいは、媒介としての貨幣が存在しないひとびとの間では、釣針とバナナの価値を比較しようと思いつく者さえないし、そんな交換は決して行われない。しかしこれらの経済も、それなりに充実した生活を実現し、それなりに安定していたのである。こうした事実に直面することによって、それでは現在の世界はどうしてこのような形になる必要があったのか、どこにどのような変化があったのかということが、より一層巨大で興味深い謎としてあらわれてくる。それは、いわゆる「歴史」教育が行うように、過去の人物たちも現在のわたしたちと同じように合理的な思考をした結果、かくかくの戦争をし、しかじかの国制を整え、現在に至っているのだと語られることよりも、好奇心をそそり、サスペンスに満ちているのである。
第三に、上記二点を総合するような側面として、現在の経済とそれを支える仕組みが、まったく普遍的なものではなく、歴史的なものであることがわかった。それと同時に、「経済」をつくっているのは「わたしたち」だが、「わたしたち」もまた「経済」によってつくられている、という点を確認できた。そこには相互作用がある。
どういうことかというと、たとえば、ミシェル・フーコーの1978-79年講義録『生政治の誕生』によると、個々人の「利害関心」のメカニズムとしての「主体」=「ホモ・エコノミクス」が生まれ、それに伴って「自由」を生産し「自由」を消費する場所としての「市民社会」が生まれたのは、ようやく近代になってからであり、そうした「主体」と「社会」のあり方は、「経済」のあり方と密接に関連していた。その近代「市民社会」においては、「自由」を生産するための「コスト」として「安全(セキュリティ)」という原理が登場し、以降、「自由と安全」が統治にとっての問題となった。また、「投資と生産」はいまや生の原理そのものとなり、教育投資、投資としての移住、子供の生産における遺伝的投資の問題などが生じている。つまり、「わたしたち」が「経済」をつくっているだけでなく、「わたしたち」が「経済」によってつくられている度合はとても大きくて、「経済」の分析は「わたしたち」の分析でもあるのである。面白いはずである。
経済を学ぶことによって「世の中」や「歴史」や「わたしたち」についてまで考えることができるというのは、やはり楽しい。木曜日は経済学です。
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