2011年8月13日土曜日

8/12 リービ英雄

リービ英雄『我的日本語』(筑摩書房、2010年)

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 歴史的に見て、日本は固有の文字をもっていなかった。自分の言葉――「土着」の感性――を書くために、異質な文字――「舶来」の漢字――を使わなければならなかった。日本語を書く緊張感とは、文字の流入過程、つまり日本語の文字の歴史に否応なしに参加せざるを得なくなる、ということなのだ。[20頁]

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 人麿はここで、究極の公である天皇家のプライベートな心情をあえて詠むということをした。

 ぼくが若いときに人麿を読んで、いちばん強烈な印象を持ったのは、きわめて形式的な美しさだった。公の文脈の中で天皇を褒める。公の中の公の文脈の中で、天皇家の誰かが亡くなるとその挽歌を詠む。しかしそれにとどまらず、少しずつ天皇家の人物のプライベートな心情を書くようになる。かつて人麿は御用詩人といわれたこともあるように、天皇家に頼まれて褒め、頼まれて嘆き悲しむのだが、ただ御用にとどまらない。それだけではなくて、天皇家の人たちを主人公にして、人麿はその心情をあえて書こうとした。ぼくは、ここが日本文学のひとつの誕生だと思うのだ。

 つまり公の役割として、天皇家に頼まれて卓抜なレトリックを作り上げた。作り上げた上で、それをリリカルな方向に結晶することができた。[72頁]

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 日本人としてドイツ語を選択するという行為には、アメリカ人として日本語を選択する、あるいは日本から中国へ行き日本語で中国を書くというぼくの行為とは違って、そこに近代百年の国家間の力関係が基本的に入っていない。日本がドイツを侵略したこともなければ、日本がドイツに占領されたこともない。国際的な力関係がそこにはない。[112頁]

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 アジア近代史の中では、中国も、韓国も、ベトナムも、苛酷で悲惨な体験をした。そのため、日本より過激なナショナリズムに走ったのだが、なぜか、彼らは言葉を問題にしなかった。

 二十世紀のさまざまなナショナリズムの中で、日本語だけが目立って、言葉そのものを民族アイデンティティにしようとした。[116−117頁]

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 北京の軍事博物館に行ったとき、近代戦争展示室の展示物に、1944年の新聞記事があった。繁体字だった。そのときまで、文字は共通していた。「戦前」の日本の漢字と「解放」前の中国の漢字が、同じだった。1500年間、同じだった。それが、日本ではGHQのマッカーサー、中国では毛沢東、ふたりのMによって変わってしまった。[147頁]

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 ぼく自身がやろうとしたことは、もう一度「翻訳」ということに、日本語を戻したことだと思う。ぼくは英語で何かを聞いて、翻訳できる・翻訳できないということを体験し、それを表現しようとした。[181頁]

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日本の文学者は「老荘思想」の影響を受けるが、老荘思想だけでは答えられない。「和歌」で答える。しかし和歌では、「道とは何か」という問いには答えられない。[207頁]

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