2011年8月13日土曜日

8/13 丸山眞男

丸山眞男『自己内対話』(みすず書房、1998年)

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 Kulturをtragenしてゐる者が大衆でないために結局圧倒されてしまふ。(付)東洋のKulturの構造そのものがどうしても大衆に浸透して行かない様に出来てゐる。だから単純に東洋的Kulturを「普及」させるといった簡単な問題ではない。(昭20・10・25)[4頁]

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 東洋精神に欠けてゐるものは時間との対決だ(歴史哲学)。時間をうつろふもの、仮相とみるかぎり、人間精神の形成が時間を通じてのみ実現されるといふことは、一つの単なる偶然、止むをえざる廻り道にすぎなくなる。かくては思想史といふものは無意味なものとなり、人間はかつて数千年の昔にソクラテス、孔子、釈迦、キリストの到達した精神的高みから一度顛落して以後、徒らなる混迷と低徊を繰返してゐたにとどまる。[7頁]

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 あるアイディアがひらめくと、すぐそれを論文にしなければ気のすまない人がある。これは恰度、性欲を感じたらその度に性行為にまで行くのと同じことで、結局体を害する。適度の禁欲の後の発散が真にfruchtbarな結果をもたらす。[23頁]

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 日本に独裁者がいないのは、日本が個人から成る国家ではなくて蜜蜂の集団のようなものだからだ。ここにはpublic opinionはない。デモや大衆集会があっても、それは世論を表すものでなく、蜜蜂の本能的なブンブン騒ぎと同じようなものだ。グループのバランスによって日本の政治は動く。

 日本の政府は家族制度が浸透しており、日本は家族制度の国である。[30−31頁]

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 国立劇場の設立趣旨に「古典を保存する」というコトバがあった。古典は「保存」の対象なのか!? これほど古典というコトバの日本的な意味を露呈している例はなかろう。ギリシャ古典は「保存」されているのか。モーツァルト・ベートーヴェンの音楽は「保存」されているのか。

 しかし日本思想の「原型」をなす直線的な時間像からすれば、「古」は「今」ではない。物理学上の定理ではないが、一つのものが二つの異なった位置に同時に存在することは不可能である(少くも三次元空間では)。古典が「規範」ではなく、過去の、「いにしえ」の文化的産物であるところでのみ、古典を「保存」するといういい方が自然にひびくのであろう。[121−122頁]

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 生きざま死にざまに人間の深淵をかいま見ることだけに感動し、そこにだけ「ほんもの」「にせもの」という――実は単純な――人間の分類法を見出す、ほとんど処置なしのロマン的思考の氾濫![142頁]

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 明治初年の自由民権運動、ジャーナリストの抵抗には投獄を当然のこととし、投獄をむしろ誇りとする気風があり、それは民衆の心理のなかにもあった。そこで合法性のワクをひろげる努力、政府投獄の措置そのものを批判し改善する方向には十分発展しなかった。「来れ牢獄、絞首台」の伝統。[144頁]

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 日本人の行動評価。

 うつくしき心、きよき心、あかき心 ⇔ きたなき心

 ピュリティの尊重から、正反対の行動様式がでて来る。

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 官僚と庶民。

 官僚と庶民で構成されていて市民のいない国――それが日本だ。ジャーナリズムの批判性は庶民の官僚批判の典型的パターンである。庶民的シニシズムには原理がない。

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 「蜜蜂の集団」と「グループの寄合世帯による統治」とが、大日本帝国とその社会の構造についてのヒュー・バイアスの観察であった。これはいわば望遠的に見た日本であるが、ズーム・レンズをつかって、これに接近して社会的人間関係を見ると、それは「もちつもたれつ社会」、といえる。「こっくりさん」の社会である。誰もが自立せずに、他者にそれぞれ寄りかかっている。[147頁]

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 日本はサムライの衰滅とともに名誉感は失われて行ったが、戦後の平等社会は急速に有名性の価値をのし上げ、いまや「名誉」の意味さえ理解されないようになった。名声や功名がもっぱら他人の評価に依存するのにたいし、名誉はヨリ個人に内面化された価値である。(むろん「良心」のように純粋に内面的価値ではないが…)マス・コミによってつくられる「有名性」が、圧倒的に人々のあこがれの対象となるのは、画一化社会にふさわしい現象だ。それに反比例して「権威」は権威を失う。[150頁]

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 身分は名誉感を伴い、身分的特権はこの名誉感に裏打ちされて義務意識を伴うこととなる(いわゆるノブレス・オブリージュ)。トクヴィルによれば、フランス革命はまさに貴族がノブレス・オブリージュを失って、たんなる「特権」に堕したところにおこった。身分への教育は、この特定の名誉感の培養である。

[…]

職人の特権、仕事への誇り、排他的閉鎖的性格、一定のしつけによる行動様式の陶冶――はすべて、貴族やさむらいの「身分」を特徴づけている諸要素と共通している。逆にいうならば、たんに身分的なるものの否定からは、画一的な平等社会――砂のように平坦で、他者とのけじめのない等質的な社会しか生れない。近代市民社会は、「職業に貴賎なし」の原則によって、各職業にパティキュラリスティックな名誉感を培養することによって、または、他者とのけじめを身分でなしに、文字通り一人一人の「かけがえない個性」にまで分解することによって(つまりジンメルのいうIndividualismus der Einzigkeit)、右のような砂漠の出現をくいとめようとして来たのである。しかも、やはりトクヴィルによれば、量的個人ではなく、「個性」のトリデとなるのは、身分=自主的集団(ゲマインデ)であった。[156−157頁]

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 民衆は偉大だとか、民衆の力を評価せよ、とかいう日本のインテリのポピュリズムほど、滑稽なものはない。自分は民衆の一人だということを一時も考えたことがないのだろうか。自分は偉大だとか、自分のエネルギーを尊重せよとか書きたてる無神経さ![157頁]

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日常的には、キリスト教徒と教会とは地上の権威に従順であり、これを「神の立てたるもの」として基礎づけさえした。しかし例外状態には、つねに前者の原則が貫かれた。そこでは、良心の自由にもとづく権力への抵抗が義務とされる。例外状態とは、地上の権威への忠誠と、主なる神への忠誠とが矛盾したディレンマの状況である。こうしたディレンマは事実としてはレア・ケースに属する。しかし、キリスト教の核心的な原理はまさに、事実的傾向性としては稀な例外状態において発現されたのである。およそ原理というものはそうしたものである。頻度数(frequency)の問題と、原理の問題とを混同してはならない。[173頁]

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「スキル」の習得は、知識の暗記とちがって、熟練した経験者に親近して「見えざる」教育を受ける過程を必要とするという、当然の事理がコンピューター時代にあまりにも忘れられていないだろうか。[191頁]

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 「自由とは他人とちがった考えをもつ自由だ」(ローザ)というコトバには、脈々とした西欧の伝統が流れている。[195頁]

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彼等にとっては[…]多数決(満場一致制に対立するものとしての)も、他人の権利の尊重も、すべて「形式」にすぎず、したがって「内容」の方が価値的に優位する。なんと「伝統的」な考え方か。まさに彼等がこういう「内容主義」を一歩も抜け出ていないからこそ、教育者としての私は、彼等にたいして「形式」を固執しなければならない。「手続」や「形式」は何のためにあり、いかなる存在理由をもつか、それが欠けたとき、人間生活は恣意の乱舞に陥り、リンチが日常化され、「ジャングルの法則」だけが支配する、という常識を、情けないことながら大学生の彼等に何度でもくりかえし強調しなければならないのだ。[196−197頁]

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 もっとも、さらにつきすすめていえば、現代流行の「自己否定」とは、昨日までの自己の否定(したがって昨日までの自己の責任解除)と、今の瞬間の自分の絶対肯定(でなければ、なんであのような他者へのパリサイ的な弾劾ができるのか!)にすぎない。何と「日本的」な思考か。[233頁]

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 アカデミズムは学問についての「型」、「形式」、それへの訓練としつけの場である。[240頁]

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 イマジネーションの力を不断にためすには、自分にもっとも慣れたものを、あたかもその都度はじめて接したかのようなみずみずしい新鮮さで感受できるかどうか、試みてみるのがよい。「古典」によって想像力が喚起されるというのはこのことである。[244頁]

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 日本が停滞的なのは、日本人があまりに時々刻々の変化を好むからである。日本にある種の伝統が根強いのは、日本人があまりに新しがりだからである。日本人が新しがりなのは、現在手にしているものにふくまれている可能性を利用する能力にとぼしいからである。目に見える対象のなかから新たなものを読みとって行く想像力が足りないからである。したがって変化は自発性と自然成長性にとぼしく、つねに上から、もしくは外部から課せられる。

 つまり、保守主義が根付かないところには、進歩主義は自分の外の世界に、「最新の動向」をキョロキョロとさがしまわる形でしか現れない。[247頁]

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認識の客観性とは、「クソ実証主義」とも、またたんなる論理的整合性とも異なること、認識することは自己の責任による素材の構成という契機をめぐって不可避的に思想と価値判断の領域にふみ入る自覚しなければならない。[249頁]

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 混沌への陶酔でもなく、秩序への安住でもなく、混沌からの秩序形成の思考を!

 底辺の混沌からの不断の突き上げなしには秩序は停滞的となる。けれども秩序への形成力を欠いた混沌は社会の片隅に「異端好み」として凝集するだけで、実は停滞的秩序と平和共存する。[251頁]

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 今の日本に必要なのは「未来学」ではなく「過去学」だ。[251頁]

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