2011年8月24日水曜日

8/15 デモクラシー1

木庭顕『デモクラシーの古典的基礎』(東京大学出版会、2003年)

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ギリシャの悲劇は周知の如く〈神話〉をのみ素材とし、それ以外のパラデイクマ、〈神話〉化されない神話や神話化されうる現実の大事件、を決して取り上げることが無かった。その〈神話〉をすら、〈神話〉として語るのをやめて一回限りの事件にしようというのである。〈神話〉と不可分の関係にある政治の再構造化のために、それを〈神話〉に対する全面的で方法的な批判の道具にしようというのである。その前提の上で、悲劇は儀礼と〈神話〉の間で意識的に完璧に儀礼の側に立って見せる。このことに全く予想外のしかも純度の高い意味が生ずる。もちろん特殊な前提故に、儀礼自体政治システムとの関係で言わば完全に形式的にのみ作動するように性質が予め換えられているということがある。悲劇はなおその特殊な儀礼とさえ区別されてさらにその向こうに接続されるのである。すると、儀礼を隔てて政治システムとディアレクティカの反対側に、隔絶された不思議な空間が現出する。むろんだからと言って非政治的空間と連続するのではない。それからは二重に隔てられる。つまり政治が「生の現実」から隔てられているとすれば、政治をはさんで反対側に、つまり政治よりもさらに「生の現実」から隔たったところに、しかし「第二の生の現実」が構築されるのである。[179−180頁]

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悲劇は自らをもっぱら一回限りで問題だらけの所与として投げ出して見せる。かくして悲劇の目的は単なる〈神話〉の再構造化であるのではない。M1 – P1に替わるのはM2 – P2でなく、M2 – X – P2である(〈神話〉と政治的パラデイクマの関係がもう一段遠くなる)、ということがはっきりと構想されたのである。[182頁]

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 少なくとも6世紀末にはAthenaiにおいて悲劇は厳密な意味における政治制度の一翼として確立される。[…]

 第一に都市中心の物的装置の中で厳密に定まった形態の空間が定着する。Dionysos神殿が創るオープンな空間にあらためてこの特殊な儀礼のための空間が厳密に区切られて設営されるのみならず、さらにその内部はパラデイクマ再現実化のための空間と単なる儀礼参加者のための空間に厳密に仕切られる。初めて後者は外の一般の政治的空間から区別される。しかもパラデイクマ再現実化のための空間内部に無い。むしろこれと向き合ってたとえば批評をするための空間である。そういう新しい形態の儀礼空間である。しかも、批評のチャンスが皆に完璧に平等に開かれるようにこの空間は円対称、否、音と光が三次元の存在たる限りにおいて球対称、の構造が与えられ、かつよく区切られる。

 もちろん上演自体が完璧に公共的な性質の事柄である。それは等しく皆の事柄である。したがって完全に共和的財政原理に則って実現される。公共的な性質を一層際立たせるのは必ずコンクールの形式において上演されるということである。複数のパラデイクマ再現実化が公開で競うagonという形態は、多元性と対抗的要素、およびその年に一つという一義性(皆のもの)、の両方を保障する。政治はディアレクティカであり、ディアレクティカは評価であるから、コンクールという形式は、審判人の判定を通じて、まさに裁判と同じように、政治システムに極めて適合的である。しかも不可避的に批評という不可欠の要素を引き出す。悲劇は儀礼そのものとは異なって批評に曝されなければ何の意味も持ちえないのである。既に述べたように、悲劇はディアレクティカに参加し(Solonと出会い)、しかもディアレクティカの前に立つ(Solonの吟味に曝される)。それからまたagonはそれ自身儀礼の再現実化であるから、コンクールは悲劇を脱儀礼化するのに資するであろう。本気でパラデイクマを現実へと近づけるのである。諸々のヴァージョンが鋭く立体的に対抗する場へと。要するに以上のことは全て政治という前提の上に悲劇が立つことに基づく。[193−194頁]

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