宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』(岩波書店、2008年)
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これからどこに行くのか。これは人間に役に立つとか役に立たないとかじゃなくて、無駄に殺し過ぎているんじゃないかという、そういう気持ちを持てるかどうかだと思うんです。それは仏教だなんだというふうに宗教の名前を借りなくても、信仰心として、ある山奥に静かな泉があって、それは自分たちにとって非常に大事なものなんだと思っているという、なんとなくそういう感覚がある。そういう気持ちに気がついてみると、何も難しい哲学がなくても、他の生き物が生きるスペースを何とか少しずつ、リスクをしょって、この世界に残したい。それが実はこの島での環境問題とかいろいろな問題の根源になるべき問題であって、ドイツ人のように、環境をコントロールして人間を幸福にできると言って何でもやるということに対しては、違うやり方があるんじゃないかなというふうに、僕はつくづく思うんです。[61頁]
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儀式が形骸化してきたのは鎌倉時代からなんです。鎌倉仏教というのは日本にとって、とても大きな宗教改革だったんですが、鎌倉仏教というのは実は人間中心の社会に保証を与えたんじゃないかと思うんです。[66頁]
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秀吉が刀狩りをやったからって、すぐ片づいたはずはない。なのに、時代劇に見る武装している侍と武装してない農民という図式はいったいいつごろ出てきたんですかね。[…]『七人の侍』というのは戦争に敗けて帰ってきた男たちが、食糧難で買い出しに行ったところでお百姓たちのいろんな態度にぶつかるとか、そういうリアリティをもった映画で。あまりにもおもしろくできているので、以後、呪縛のように日本の時代劇を縛ってしまって、常に侍対農民という階級史観が固定しちゃったような気がしてるんです。[73−74頁]
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網野 これまで農民が人工の八割以上を占めていたとされましたが、実際は、多く見積もっても四割くらいだと思います。それなのに農民一色に考えられてきたのは、明治政府が戸籍をつくるとき、士農工商で分けて、漁民も林業をしている人も、「村」の商人、職人も、「百姓」はみな「農」にしちゃったからですよ。[75頁]
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日本のアニメはマンガを一番大きな源とするわけですが、その表現方法の最大の特徴は、“情念”が中心だということです。情念で表現するために、空間と時間が自由にねじ曲げられ、つまりリアリズムがない。アニメはマンガに影響されながら変化し、パターン化し、かなり特殊なタコツボのような世界になってしまった。だから「映画」を観るつもりの人がアニメを観てもわけがわからない。そんな作品が日本のアニメーションの未来を開くとは、とても思えません。[82頁]
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日本人自身が気がつかないほど、マンガという表現形式は広く深く文化に浸透していると思います。もちろん、日本のマンガが切り開いた表現の可能性はとても大きい。ですからその遺産をすべて捨ててしまうのもバカなことです。かといって、マンガの世界がそのまま自分たちの教師だったり、自分たちの出発点だったりするのはどうか。それは、日本人が現実認識をするときのリアリズムの欠如につながっていると思うんです。人間同士が葛藤しなきゃいけない、むき出しでぶつかり合わなければいけない場所においても、どこかリアリズムに欠けている。僕はそれが、日本人の好きな部分でもあるんで複雑なんですが。[83頁]
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自然というのは人間が一度破壊したからといって、全部砂漠と化してしまうものではない。自然も繰り返し甦ってくる。そのとき人間が、そこから何を学ぶかだと思います。一度、過ちを犯したら二度と回復できないのだったら、多分、人類はもうとっくに滅亡しています。[103頁]
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マンガという形で世界を切り取るときに、非常に普遍性を失ってしまう。つまり、時間と空間を際限なくデフォルメできるものですから、どんどん現実世界を見なくなる。一部の感覚や心理を肥大化させて描くという傾向に入ってきているので、むしろ、そういうマンガに慣れてしまった目をもう一回、限定された時間や空間の中に戻す作業をやらないといけないところまでマンガは来ているなという感じがしています。[139頁]
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コンピューターの映像もある時期までは経済的に成り立っていくけれど、たちまち爛熟期が来て、食傷されて、CGも何もかも一定のモザイクの一つになっていくだろうと思うんです。ゲームにはすでにその気配がありますし、アニメーションやマンガも、もうとっくになっている。[141頁]
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現実よりもテレビの中の世界の方が圧倒的に魅力があると子どもが思った瞬間が『ウルトラマン』です。[144頁]
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妄想するのですが、小学校三つぐらいの範囲の地域を実験場にさせてもらいたい。そこの幼稚園では字なんか教えない。おとながありったけの知恵をあつめて、みんなそこが大好きで家に帰りたくないっていう場所をつくる。ビデオの『となりのトトロ』なんか見せない(笑)。[145頁]
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自分の表現したいものと自分の腕とのギャップを、想いでカバーできると思っていたんだけれど、やっぱりちゃんと修行しないとだめだ。そうしないと自分の想いを表現することはできないんだということを、痛いほど思い知らされたんです。
それから変わったような気がします。とにかく、全力投球をすること、どんなつまらない仕事でも何か発見して、少しでも前進すること。そうしないと、本当に大事な仕事に出会った時、力を発揮できないんです。[149−150頁]
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日本文化の今の不思議な状況というのは、今、漫画が文化の発信元になっていることなんですよ。漫画がサブカルチャーじゃなくなっている。すべてが劇画化してしまっている。絵を描く才能があれば、漫画を描こうと思っている人が、絵が描けないからという理由だけで小説を書いたり、あるいは漫画が好きな人が、そのイメージで音楽を作ったりとか。それではいけないと思う。映画は映画としての粘り強い空間、粘り強い表現を持たないと。今の日本文化は全てが希薄で漫画的になってきていて、カットもアングルも役者もすべてが劇画的な薄っぺらさしか持っていない。[156−157頁]
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僕は、ほんとにジレンマの固まりでやってるんですが、漫画映画を子供時代に一本か二本見るだけで終われたら素晴らしいなと思ってるんですよね。なんか不思議なきれいなものを見たな、あれ何だったんだろうと思いながら、子供時代を充実して過ごせるぐらいの空白が周りにあったら子供たちはもっとすこやかになれると思います。その隙間をかたっぱしから、ありとあらゆるものでよってたかって埋めて、その子の持ってるお金というより親の持ってるお金を狙ってるのが僕たちの仕事になってるものですから、これはいったいどういうふうにおさまっていくのかっていうのはちょっと見当がつかない。ただ、あるアメリカの青年と話したときに、彼は最新式のコンピューター・グラフィックスをやっている青年でしたけども、自分がテレビをみようとすると母親がパッと蓋をする。見られなかった。それでたまに見るものにドキドキしてました、と。映像に対して本当に自分がドキドキしたものだから、そのおかげで今の職についているのだろうと思う、映像の力をまだ自分は信じていると。ちょっと翻訳も入ってますけども。僕、それは正しいと思います。[245−246頁]
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物事が単純にはっきりしてくると思います。生きているって何だとか、家族って何だとか、飯を食うっていうのはどういうことなのかとか、物を持つというのはどういうことなのかとか。つくるというのはどういう意味があるんだろうということを問われる時代になっていくだろうと思うんです。世の中がうまくいかないからそうなってくるんですよね。それから取り残された映画はつくりたくない。同時にお客さんが、ああ面白いものを見たという映画をつくりたい。これでちょっとほっとしたとか、とりあえず三日ぐらいは元気になりますとかね。[287頁]
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フランスにも、長編アニメーション映画を作りたいと考える若者達がたくさんいるのですが、おそらく作れないでしょう。労働条件やコストのことだけではなく、中央集権や船長の指示に従うことを個人の否定と考えるからです。特にマンガやアニメーションを目指す人達に、その傾向が顕著なのかもしれませんが。
1950年代に、ソ連でいい長編が生まれましたが、スターリン批判の雪どけと共に、個人の芸術家の群に分解して、それ以降長編アニメーションは作られなくなりました。まあそのおかげで、ノルシュテインのような真の芸術家に機会が与えられたとも言えるんです。
日本も、とうとうそこへ来たんです。[301頁]
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どこか大きなプロダクションに入らなくてはいけないとか、スポンサーを見つけなきゃいけないというんじゃなくて、「映画といえども一人で始められるんだ」というのは、たいへん大きなメッセージだと思うんです。それは日本でもとても大事なんじゃないかなと。ジブリに入ることに意味があるんじゃなくて、「自分の作りたいものをとにかく自分の努力で作り始めることが、とても大事なんだ」「そうすれば、ちゃんと道は開けるんだ」と。[377−378頁]
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映画というのは、作り終わった途端に「ああ、しまった」ということの累積なんですよね。自分たちの作った映画を観ると、ダメなところばかりが気になって、まともに画面を見られない(笑)。自分の映画をまた見たいとは思わないんです。そうすると、次の映画でも作らない限り、その呪いから逃れられないんですよ。[387頁]
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この十数年、日本はずっと政治のこととか経済のこととか論じ過ぎた気がするんですよ。もううんざりですね。[446頁]
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養老 要するに人間の文明というものは、対数曲線みたいになっていて、あるところまではビッと上がるんだけれども、そこから先はいくら努力をしてもたいして上がらないんですよね。そのフェーズ(局面)に入っちゃったら、それ以上労力を投入するのはやめたほうがいいんですよ。[451頁]
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