2010年10月2日土曜日

翻訳論(1)

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ハイナー・ミュラー「アイスキュロスを翻訳すること」(抜粋)         

これまでの翻訳でわたしが我慢できないのは、ある全体性を、ひとつの完全なテクストをつくろうと試みていることです。そのせいでまったく質が低下しているのです。

ヴィッツマン[翻訳者]のテクストで重要なことは、可能な限り逐語的に翻訳してあり、オリジナルとは何の関係もないような形式に押し込めようとしていないことを、本当に信頼できる点です。ある種のものごとを逐語的に表現し、それが今日的な視点で理解可能かどうかは顧慮しないということは、まったく勇気を要します。ヴィッツマンには本来、詩的な野心がありません。しかしまさにそのことによって詩が生まれているのです。

ほとんどの翻訳者は、意味されているものが理解可能になるよう表現しようとします。しかし、逐語的な翻訳に巻き込まれてしまった方が、ひとはより多くを理解できるのです。そうした表現の中にある、翻訳の驚愕させる効果、ショックを与える瞬間、これこそが非常に重要なのです。

戯曲は散文とは異なります。戯曲は読むためのものではない。音読のためのものです。戯曲は、それが発話されたのを耳にするやいなや、恐ろしく具体的に、また感覚的になるものです。通常、今日ではもはやひとびとは「語」を読まず、文を読みます。意味連関を読みます。それはおもに社会のコンピューター化に由来しているのですが、重要なのはもはや情報のみなのです。このテクスト[アイスキュロス]は、本来は一語一語読むしかないものです。情報などまったく非・劇的なものです。このようなテクストにはただ見る者/聴く者さえいればいい。部分と部分の間に、常に見る者/聴く者のための場所があるからです。わたしが言いたいのは、奈落がそこにあるということです。一つの意味や一つの解釈によって割り切れない場所がある。それは空虚で、暗い空間です。ひとは誰しも、そこで自分自身のろうそくを見つけなければならないのです。

文献:Heiner Müller: Aischylos Übersetzen. Ein Gespräch mit Heiner Müller. In: Aischylos DIE PERSER. Hrsg. von Christoph Rüter, Berlin 1991.


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 ある種のテクストは、内部に、そのテクスト自体を崩壊させかねない異物を含む。そうした異物のざわめきを聴く耳を養うこと、それは現実的に役に立ち、同時に歴史意識を喚起する。それ自体がある種の事態への批判となり、ある種のものごとの擁護となる。

 そう感じてはいるのだが、それにしても翻訳についてどう考えればいいかわからないことが多いので、あるいは何を考えたいかわからなくなることが多いので、翻訳論と題して始める。

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