2010年10月16日土曜日

翻訳論(3)

[翻訳論(1)(2)]
 
 ハイナー・ミュラーの翻訳論に近いことを、その80年以上前の日本で論じた者がある。二葉亭四迷である。二葉亭もまた、翻訳における「意味」の重視を疑問視し、「形式」の尊重を試みた。
 
「外国文を飜訳する場合に、意味ばかりを考へて、これに重きを置くと原文をこはす虞がある。須らく原文の音調を呑み込んで、それを移すやうにせねばならぬと、かう自分は信じたので、コンマ、ピリオドの一つをも濫りに棄てず、原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つ、コンマが三つといふ風にして、原文の調子を移さうとした。殊に飜訳を為始めた頃は、語数も原文と同じくし、形をも崩すことなく、偏へに原文の音調を移すのを目的として、形の上に大変苦労したのだが、さて実際はなかなか思ふやうに行かぬ、中にはどうしても自分の標準に合はすことの出来ぬものもあつた。」
(二葉亭四迷「余が飜訳の標準」(1906年)、「明治の文学 第5巻」所収、筑摩書房、2000年)
 
語数も、形(語順)も、コンマやピリオドの数も原文と翻訳を一致させようという、今日の視点では驚くべき実験がなされた。しかしながら二葉亭自身は、その結果できあがった翻訳を、「いや実に読みづらい、[…]ぎくしやくとして如何にとも出来栄えが悪い」と評し、最終的には原作者の「詩想を移す」翻訳を理想とし、そのためには原文のかたちを崩すことも肯定するに至った。
 
 しかしそれでも、二葉亭の最初の試みは本質的に重要な要素を含んでいたように思う。語順、コンマ、ピリオドといった「形式」とは、なんであろうか。それによって言葉には何が生じるのか。
 
 語順とは、読者の意識に音とイメージと意味が与えられる順序であり、コンマやピリオドとは、その順序に打ち込まれるアクセントである。語順、コンマ、ピリオドによって、言語はひとつの連続性を形成する。基本的に一方向に進むその連続性は、「時間」と呼ぶことができる。したがって、ひとつの言語の「形式」とは、その言語が有する固有の「時間」の流れ方なのである。“Ich spielte gestern mit meinem Bruder.”(わたしは-遊んだ-昨日-一緒に-わたしの-弟)を「昨日わたしは弟と遊んだ」と翻訳することは可能だ。しかしこのように翻訳したとき、原文に流れていた「時間」は失われる。「わたしは」のあとに「遊んだ」がくるドイツ語の「時間」と、文の末尾に「遊んだ」がくる日本語の「時間」は、決して同じではないからである。
 
 「順序」をドイツ語で「Ordnung(オルトヌング)」というが、この語はまた「秩序」を意味する。語順とは言語に固有の「秩序」であり、「秩序」とはすなわち「時間」なのだ。したがって、二葉亭四迷がかつて理想とし、ハイナー・ミュラーが理想とし続けた「形式」の翻訳とは、別の言語の「秩序」と「時間」を導入することで母語の「秩序」と「時間」を破壊する、あるいは少なくとも混乱させ、中断させる行為である。いわゆる「文法的に正しい」翻訳が、実は原文の言語の文法に照らして「正しい」のではなく、翻訳の言語の文法にとって「正しい」のが近代以降の翻訳である。それは母語の「秩序」と「時間」の安定性を譲り渡さない翻訳であり続けている。「形式」の翻訳は対照的に、母語の安定性を流動化させる翻訳である。
 
 1921年、「結局、形式の再現に忠実であることが意味の再現をいかに困難にするかは、おのずと明らかである。したがって、逐語性の要請は意味の保持という関心からは導き出せない」と書いたのは、ヴァルター・ベンヤミンだった。「形式」の翻訳についてさらに考えるために、次週は彼の翻訳論を検討しなければならない。

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