2010年10月10日日曜日

ドイツ文学史(2)

 ベルリンの都市大衆文化は、19世紀から20世紀への転換期に芽生え、1920年代半ば以降に花開いた。

 たとえば、急速な人口増加(1890年の157万から1910年の207万へ)を背景に、第一次世界大戦前にすでに数百のカフェが生まれ、それらが文化的な社交の場となっていた。

 さらに20年代半ば以降は、ヴァイマル共和国安定期の経済回復と、8時間労働導入による大衆の「余暇」の創出、労働者余暇組織がつくられたことなどに後押しされ、大都市の大衆文化はさらに拡がった。消費文化(デパート、チェーン店形式のレストラン)、大衆スポーツ(サッカー、自動車レース、ボクシング、自転車競技など)、映画やラジオといった非参加・受動型の娯楽などが提供されたのである。そこには「アメリカ」というモデルも大きく影響していた。
 
 ドイツ語で書かれた長編小説では、ヘッセ(1877-1962)、カロッサ(1878-1956)、ツヴァイク(1881-1942)らが、未だ19世紀の市民的教養の世界に深く根ざした作品を執筆した一方で、ムージル(1880-1942)、カフカ(1883-1924)、ブロッホ(1886-1951)らは、そうした市民的教養の無効性が明らかになった大衆社会の本質を見抜き、ヘッセらとは異なる現代意識で作品を残した。
 
 また、大都市そのものが主題であるような文学が生まれたのもこの時期の特徴である。小説ではデーブリーン(1878-1957)、エッセイではベンヤミン(1892-1940)が代表的である。
 
 他方、ベルリンは「演劇都市」の側面も備えていた。1889年、パリの自由劇場にならい、ブラーム(1856-1910)を中心に「自由舞台(フライエ・ビューネ)」が設立された。これは検閲で上演できない戯曲を会員に見せることを主たる目的とした協会だった。とくにハウプトマンの『日の出前』初演を成功させることで自然主義演劇の登場を印象付けたが、その後おなじ作者の『織工』を舞台にのせ、これがシュレージエンの織工一揆を(1844)をテーマにしていたため、「自由舞台」は要注意グループとしてプロイセン検閲当局の注目をひくことになった。当時、戯曲はしばしば取り締まりの対象になった。そうしたなかで「自由舞台」は検閲と取り締まりをはぐらかすために、一般公衆を観客にせず、会員だけを対象に社会批判劇も上演したのである。
 
 この運動はしだいに会員を拡大し、ブラームはベルリン・ドイツ座の芸術監督に迎えられたが、運動自体は世紀末には解散に至った。しかし他方、1890年、この運動の別の流れから、労働者観客組織ともいうべき「民衆劇場(フォルクスビューネ)」が生まれ、これは現在まで存続している。また、後年演出家として世界的名声を得るラインハルト(1873-1943)は、当初俳優としてブラームに見出されたが、ドイツ座の芸術監督としてベルリン演劇の中心となった。彼の演出方法はのちに大衆操作の技法としてナチスに模倣されたと言われている。
 
 その他、自然主義とは別の芸術の潮流としては、印象主義、象徴主義(マラルメに影響されたゲオルゲの詩など)、表現主義(絵画、映画、ハイム、ベン、トラークルの詩など)が興った。その後、第一次世界大戦後には、冷静な観察と日々の現実に働きかける実用性を重んじた新即物主義があらわれ、ケストナー(1899-1974)やブレヒト(1898-1956)が登場した。ブレヒトはさらに演劇の革新者となり、叙事演劇を構想した。

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