2010年10月23日土曜日

翻訳論(4)

[翻訳論(1)(2)(3)

 カール・シュミットによれば、法(Nomos)とは場所を確定すること(Ortung)であり秩序をつくること(Ordnung)である。先週は、ひとつの言語のシンタックス、すなわち法としての場所確定(語順)を言語の秩序ととらえ、その秩序を特定の「時間」の流れとして考察した。その際、「形式」に従った翻訳を、言語の「秩序」と「時間」をかき乱す行為と考えた。

 ところで、翻訳の「目的」とは何か。翻訳における「意味」を重視するのであれば、目的は内容の伝達だろう。では「形式」を重視するのであれば? 二葉亭の目的は「音調」を移すことだった。しかし「形式」の翻訳によってそれを実現することはできなかったので、結局彼は「形式」の翻訳から離れた。ハイナー・ミュラーはむしろ原作と翻訳を全く別のものとしてとらえ、後者においては、「翻訳の驚愕させる効果、ショックを与える瞬間」が重要であるとした。翻訳に固有の目的を見出していたことは確かだが、しかしなぜそれが重要なのかということに関しては更なる検討が必要とされる。

 この問題に関して、ヴァルター・ベンヤミンは以下のように書いた。

翻訳は、究極的には、諸言語間の最も内的な関係の表出に対して合目的的である。翻訳はこの隠れた関係そのものを明るみに出すことはできないし、それを作り出すこともできない。しかし、翻訳はこの関係を萌芽的ないし内包的に実現することによって、それを表現することはできる。

諸言語間のあらゆる歴史を超えた親縁性の実質は、それぞれ全体をなしている個々の言語において、そのつど一つの、しかも同一のものが志向されているという点にある。それにもかかわらずこの同一のものとは、個別的な諸言語には達せられるものではなく、諸言語が互いに補完しあうもろもろの志向の総体によってのみ到達しうるものであり、それがすなわち<純粋言語>なのである。

翻訳者の使命は、翻訳の言語への志向、翻訳の言語のなかに原作のこだまを呼び覚ますあの志向を見出すことにある。
(「翻訳者の使命」、内村博信訳、『ベンヤミン・コレクション2』、1996年)

ベンヤミンの問題は、人間や人間の生にとっての翻訳ではなく、歴史としての言語の生にとっての翻訳だったのである。

 今回、翻訳の「目的」ということを考えたのは、フィリップ・ラクー=ラバルトの「翻訳と歴史」を再読したからである。ラクー=ラバルトはヘルダーリンにとっての翻訳の「目的」を以下のように表現する。

ヘルダーリンにとって、翻訳することが歴史を思考することであるのは、翻訳が歴史の痕跡を辿り直すからではなく、翻訳が歴史の筋道をつけ、開示し、切り開くからなのである。翻訳は、自身の忘却に陥ったギリシア人たちへの接近、[…]および自分自身を待っている近代人たちへの通路を、ひとつの同じ運動によって切り開く、もしくは切り開こうとする。それは破局的な完遂への道程である。

それはハイデガーが「ナツィオネルなもの」と「国民的なもの(ナシオナル)」を意図的に混同することで考えていたような、ある歴史の可能性ではなく、「歴史」そのものの可能性に関わる。その可能性が拠り所とするのは、過去を記憶することではなく、絶えずなお来たるべくある忘却されたものを指し示すこと、あるいはむしろ「書き取らせること(ディクテ)」である――それは我々の同一性を失効させ、完了へと向かう命取りな欲望を挫き、延期する、非固有性について考察することなのである。
(野崎歓・伊藤綾訳、『現代詩手帳 特集:ロマン主義』所収、2000年)

ラクー=ラバルトによれば、ヘルダーリンにとってソフォクレスの翻訳は、「忘却されたもの」への接近であると同時に「来たるべきもの」への接近でもある。それは「異質なもの」の経験であると同時に、「不可欠なもの」の経験でもある。ヘルダーリンは、自らが西洋の近代人と自覚したうえで、そうした経験に身を晒さねばならなかったのである。

 ベンヤミンとラクー=ラバルトは、ともにヘルダーリンの翻訳を論じながら、翻訳の「目的」に関して、異なる二つの極を示している。今回は、彼らの翻訳論を細かく検討するよりも、この二極の存在そのものについて触れたかった。すなわち、翻訳の目的には、「翻訳」の目的(ベンヤミン)と「翻訳者」の目的(ラクー=ラバルト)の二つがある、ということである。そして、それらを同時に思考することが翻訳論の課題ではないか。人間や人間の生だけに関連付けるのではなく、言語の生にとっての翻訳の目的を考えることは重要である。なぜなら言語は翻訳者よりも遙かに長い時間を内包しているからだ。しかしまた、一人一人の翻訳者は普遍的な目的に従う機械ではありえない(少なくとも現代においては)。よって翻訳者が同時代的、歴史的、現実的な目的をもって翻訳をする(せざるをえない)ことも明らかだろう。その双方を考慮したうえで翻訳の目的は思考されるべきであり、翻訳と言語の関係の戦略も検討されるべきだろう。(そしてその双方が均衡するところに、翻訳の可能性があるのかもしれない。)

 今週はいわばひとつの注釈である。これまでの議論はほとんど翻訳論の前提でしかない。次週はなんとかその外へと一歩を踏み出したい。

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