2010年10月22日金曜日

ドイツ語(4)

 言葉がもっている時間は、言葉を使うわたしたちがもっている時間よりも、ずっと長い。それゆえ、言葉のなかからは、わたしたちには異質なものを掘り出せることがある。

 たとえば、ドイツ語にProzessという語がある。これはある場合には「プロセス(過程)」と訳され、別の場合には「裁判」と訳される。この両方の意味がひとつの語のなかに同居している、ということが重要である。ハイナー・ミュラーは、カール・シュミットを「歴史の中から訴訟をつくりだす」演出家と評価したうえで、Prozess(裁判/過程)と演劇との関係について簡単に触れている。
演劇はProzessとも関係しています。Prozessこそひとつの演劇構造です。戯曲はしばしばProzessであり、訴訟です。科学的意味におけるProzessとは動態化であり、法学的意味におけるProzessとは固定化です。
Heiner Müller: Krieg ohne Schlacht
ここでは演劇うんぬんよりも、Prozessという語において、「動態化」と「固定化」が同居している、というミュラーの指摘に注目しよう。Prozessとは、固定的なものが流動化される時間(過程)であると同時に、流動的なものが固定化される時間(裁判)である。そしてProzessという語は、その両方の運動と時間を、同時に含んでいる。わたしには、その「同時に」ということが具体的にどういうことなのか、意味もわからなければイメージもできない。しかし「意味もわからないしイメージもできない」何かが言葉のなかにはある、という事態そのものが、何かを破壊し、何かを構築してくれはしないだろうか。

 ここでクライストの「チリの地震」の一節を参照しよう。
大地が足下で揺れた、牢獄の壁が全て裂けた、建物が傾いた、通りのほうへ倒れた、そのゆっくりとした倒壊に、向い側の建物の倒壊が出会い、偶然のアーチをつくったため、完全な横倒しは防がれた。
「出会い」によって「偶然」生まれた「アーチ」。クライストはある手紙で、「アーチ」について、絵入りで以下のように書いている。
どうして、とわたしは思った、アーチは崩れ落ちないのだろう、支えが一つもないのに? それは、とわたしは答えた、すべての石が一斉に落ちようとしているからだ。
クライスト自筆の「アーチ」。18001131日付の書簡。

 全ての石が落ちようとするとき、全ての石が静止する。流動化と固定化は同時に発生し、そのとき均衡が生まれる。クライストにおいては、秩序の全的な崩壊の中で、瞬間的に別の秩序、すでに秩序とも呼べないような「かたち」が逆説的に結晶化する。それは安定性とは無縁な「かたち」であり、実際に瞬く間に解消されてしまう。ハイナー・ミュラーはクライストのこの性質を「静止状態における全体的加速」と呼び、それを「台風の目」に喩えた。和仁陽は、「秩序が不安定であることは、秩序の硬質性を否定しないどころか、それと表裏をなしている」と指摘した。

 クライストがこの「アーチ」に込めている運動と静止の同時性は、Prozessという語に含まれている「動態化」と「固定化」の同時性に極めて近い。それは、「裁判」や「過程」を描くジャンルとしての戯曲と物語に対して、クライストが非常に忠実だったこと、その根源的な意義において忠実だったことを示しているのではないか。戯曲や物語が描くべきは、流動化と固定化、運動と静止、進行と停止、衝突と均衡、破壊と構築の同時性としてのProzessなのである、と。

 先週論じたように、「チリの地震」はその内容として「大地の揺れ」を扱っており、同時にそれは「言葉の揺れ」のなかで描かれている。流動化と固定化の挟間の、あらゆる「秩序」の揺れを描くことこそ「物語の課題」なのだ。全く相反する状態を同時に知覚すること、ひとつのものが同時に複数のものになるさまを感じることを、クライストの作品は求めるのである。

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