2010年10月5日火曜日

国際法(1)

 ハインリヒ・フォン・クライスト(17771811)の戯曲に『ヘルマンの戦い』という作品がある。これは、ローマ帝国による支配が拡大しつつあったかつてのゲルマニアで、ヒェルスカー族の族長へルマンがゲルマン諸部族の蜂起を画策し、ローマ軍を破るまでを描いた作品である。

 その一場面を以下に紹介する。ヘルマンの手に落ちたローマ人ゼプティミウスは、自らの剣を渡して抵抗の意思がないことを示し、捕虜にしてくれと申し出る。ところがヘルマンは彼を殺そうとする。ゼプティミウスは驚く。

ヘルマン     どうして殺してはいけない?
ゼプティミウス  (堂々と)――なぜならわたしはあなたの捕虜だからだ!
          勝者の義務を忘れないでいただきたい!
ヘルマン     (ゼプティミウスの剣に身をもたせかけながら)
          義務、法、権利を語るとは! 驚かせてくれる。
          この男はキケロの本でも読んだのだろう。
          その本ではわたしにどうしろと言っている?
ゼプティミウス  本だと? 嘲笑ばかりの哀れな男め!
          あなたの眼前に無防備に晒されたわたしの首が、
          あなたの復讐を受けることなど許されないのだ。
          それゆえ、法と権利の感情を
          あなた自身の胸にも刻み込んでおいていただきたい!
ヘルマン     (相手に近づきながら)
          法と権利がいかなるものか、知っているらしいな、極悪人よ。
          そうであるなら、なぜ侮辱されてもいないのにドイツに来て、
          わたしたちを弾圧した?
          二倍の重さの棍棒で
          この男を殴り殺せ! 

 この場面で問題となっているのは、実は国際法である。より具体的には、戦争法である。

 ローマ人ゼプティミウスは、「戦争中に捕虜となることを申し出る者があれば、その者を殺したりしてはいけないはずだ」と訴える。しかしヘルマンは、「そもそもお前たちがこの戦争を始めたこと自体が不当だった。不当な戦争を遂行した者に法や権利を語る資格はない」と切り捨てる。これは、「戦争/戦争法とは何か」という問題を巡る二つの立場に、正確に対応しているのである。

 ヘルマンの立場は行為説と呼ばれ、戦争法を、「どのような戦争が法的に正当と認められるか」を定めるものとみなす。問題となるのは「戦争への法 jus ad bellum」であり、「正当原因」に裏付けられた戦争のみが許されると解する。これは正当戦争論と呼ばれる議論で、17世紀の考え方とされている。ちなみに、『戦争と平和の法』を著したグロティウスによれば、正当戦争の根拠となりうる「正当原因」とは、防衛・回復・処罰である。
 
 他方、ゼプティミウスの立場は状態説と呼ばれ、戦争法を、「戦争状態においてはどのような法が妥当すべきか」を定めるものとみなす。問題は「戦争の中の法 jus in bello」であって、戦争の開始に関しては正当原因を問わない。開戦の決定は法の外の問題であって、開戦手続きや戦闘方法のみが規律されていればよいとするこの考え方は「無差別戦争観」と呼ばれ、18世紀以降20世紀にいたるまで、この立場が主流となっていくのである。

 1808年にクライストがドレスデンでこの戯曲を執筆したとき、ドイツ地方の大部分はナポレオン率いるフランス軍に占領されていた。『ヘルマンの戦い』が解放戦争の寓話として構想されていることは明白である。しかしながら、上記の場面が示しているのは、クライストがたんなる「愛国的文学者」ではなかった事実である。『ヘルマンの戦い』には、19世紀初頭に戦争を巡って二つの異なる考え方が併存しぶつかり合った、その歴史的瞬間がたしかに刻印されており、むしろクライストは、国際法におけるその新しい戦争観、正当原因を問わない無差別戦争観と、それに基づく侵略を問題にしていたのである。

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