2010年10月12日火曜日

国際法(2)

 国際法について考えるならカール・シュミットの『大地のノモス』を読まねばならない。読まねばならないのだが、まだ読み切っていないので、国際法に対するシュミットの考えが簡潔に伝わる別の小論を紹介したい。「現代帝国主義の国際法的諸形態」(1932)という論文である。
 
 国際法はなぜ重要か。それは国際法が、国家同士が行うゲームのルールだからである。しかもこのルールは、「学ぶ」だけではいけない。なぜなら、ルール自体が変化しうるからである。国際社会には一国内のような「主権=至高の権力」が存在しないため、自国に有利なルールの解釈や新たなルールの創造が可能でありまた重要になる。学び、適用するだけでは、いつのまにか自分に不利なルールに包囲されているかもしれず、そうなった暁には何を学び何を適用しても無駄なのである。
 
 シュミットはこの点に極めて意識的だった。まず結論を引用してしまおう。
 
「広い概念を用いて全世界の人々にその尊重を強制する能力、これこそ世界史的重要性をもった現象である。決定的重要性をもった政治的概念において重要なのは、その解釈者・定義者・適用者である。即ち平和とは、軍縮とは、干渉とは、公序公安とは何かの具体的決断者が問題である。人類一般の法生活・精神生活において千鈞の重みをもつ現象の一つは、真の権力者とは自ら概念や用語を定める者であることである。[…]一大国民が他の諸国民の言語様式、さらには思考様式さえ支配し、語彙・術語・概念を自ら定めるに到ることこそ、真の政治的実権の表現である。」
 
「一国民は、法、特に国際法について他国の語彙と観念に服した時初めて被征服者となり、武器のみならず固有法の引渡しが成就するのである。[…]悪意の批判は無用であるが、外来の観念と外よりの『道徳的武装放棄』の要求に従順に屈服すべきでもない。これらは他国権力の手段にすぎないのである。概念や思考様式もまた政治的決断の問題でありうるというこの意識と感情こそ必須のものであり、我々は常にこれに目覚めていなければならない。」
(『カール・シュミット著作集1』所収、長尾龍一訳、慈学社、2007年)
 
シュミットのあやうさの露呈を読み取ることもできるかもしれないが、それもやはり彼の明晰さゆえだろう。シュミットに倣えば、たとえば「平和が大事だから平和に向けて一人一人が努力をしよう」と思ったとしたら、そう思わせたのはそもそも誰か、と考えねばならないのである。なぜなら、そうした観念もまた必ず誰かがつくったものであり、「平和が大事だ」とひとびとが自然に思うとき、実際にはその観念をつくった者がゲームに勝ち、現実に利益を得ているからである。
 
 『政治的なものの概念』においてシュミットは、「政治的なもの」とはそれによって「友」と「敵」が区別される問題のことであり、民主制国家ではあらゆるものが「政治的」になりうると説いた。「平和」や「人権」や「国家」といった概念をいかに理解するかによって「友」と「敵」が別れるとすれば、それらの概念は「政治的なもの」といってよい。したがって、国家が概念や用語を用いる場としての国際法は、きわめて政治的な舞台であり、そこでどのような言葉を使い、広め、それによって誰を「友」とし誰を「敵」とするかに鋭敏であることが必要なのである。
 
 言うまでもないことだが、「権力者とは概念や用語を定める者である」というテーゼは、法以外の分野においても適用されうるだろう。その言葉、その概念、その方法を使用すること自体が「政治的」であることを前提として、それぞれの「ゲーム」に参加しなければならない。概念や思考様式もまた、あるいはそれらこそ、政治的決断の問題だからである。

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