2010年10月25日月曜日

憲法(4)

[憲法(1)(2)(3)

1.

 非常に大雑把で、まったく緻密なところのない議論を続けてきたが、問題の輪郭ははっきりしてきたと思う。

 憲法は、「これがわたしたちだ」という宣言である。そしてそれは、「わたしたちの時間」を創設する。

 ところが問題は、この「時間」が均質で統一性ある時間ではないことである。

 これは、近代憲法の中に同居する自由主義的要素と民主制的要素の違いと関係する。「自由民主党」という政党はあるが、自由主義と民主制は元来まったく異なる二つの原理である。

 自由主義にとって、「わたしたち」は複数の「わたし」からできている。ところが民主制の原理に従えば、「わたしたち」は飽くまで単一の「わたしたち」であって、それを個々の「わたし」に分解することはできない。自由主義を「私」、民主制を「公」の原理と考えることができるだろう。そして近代憲法は、互いに矛盾しあう(と思われかねない)これら両者を同時に抱えているのである。

 具体例として、日本国憲法21条1項に定められた表現の自由(「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」)を採り上げよう。表現の自由は二つの価値をもつとされる。それは、1)自己実現の価値。すなわち、個人が言論活動を通じて自らの人格を形成・発展させることの価値。そして、2)自己統治の価値。すなわち、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与できるという価値。言うまでもなく、自己実現の価値は個々の「わたし」に表現の自由を保障する自由主義的側面であり、自己統治の価値は全体としての「わたしたち」が表現の自由を通じて「わたしたち」の政治をつくっていくことを保障する民主制的側面である。このように、二つの「わたしたち」のあり方が同一の条文の中にも並存しているのである。

 近代憲法において、自由主義という「公的なものに対する私的なものの優位」と、民主制という「私的なものに対する公的なものの優位」が同居しているということ。自由主義的には、憲法は権力の横暴から個人の自由を保障するための契約であり、民主制的には、憲法は「わたしたち」が「わたしたち」のあり方を決定する宣言である。前者をロック的、後者をシュミット的と考え、ルソーはむしろ両者の間の矛盾と対立を解消するロジックを発見していたとみなすことができるかもしれない。

 ともかく、事実として憲法には二つの原理が同居し、「わたしたち」の存在と生活もたしかに自由主義的側面と民主制的側面をもち、自由主義的時間と民主制的時間をもっているのである。


2.

 というのが大筋議論として「まとも」な考察だが、しかしこのような考え方自体がすでに罠にはまっていた。

 というのは、憲法とその時間は均質でなく統一的でないとしておきながら、実は「自由主義」と「民主制」という二つの均質で統一的な原理を語っているからだ。一つに見えるものを一つと考えるか実は二つと考えるかは大きな違いを生むけれども、しかし一つの均質を二つの均質に置き換えても実質的には変わりがない。

 それ以上に、自由主義的時間と民主制的時間、「私」の時間と「公」の時間がひとつの「憲法」にまとまっているのだ、というのは、結局のところ、テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼというわけで、まったく弁証法的、まさしく近代的な考え方だ。

 だから、「わたし」には二つの在り方があるけどそれが一つにまとまっているとか、「わたしたち」には二つの在り方があるけどそれが一つにまとまっているとかいう話は、要するに近代の根っこに還っているだけだ。もともとそういう「発明」だったのである。

 だからこそ、むしろ一つのものを二つに分けたり、二つのものを一つにまとめたりするのでない「わたし/たち」や「時間」がほしい。一日のなかに無数の異なる「時間」があったり(その結果「一日」という考え方が無意味になるほど)、「わたし」や「わたしたち」が無数に異なるあり方でいること(その結果「わたし」や「わたしたち」が無意味になるほど)を考えたい。あるいは、それはすでにドゥルーズが『差異と反復』で書いたことだから、その先が構想されるべきということになるのだろうか。

 近代憲法が不要になる時代が訪れていい。とりわけ日本にはどうせかつて近代憲法が存在したことはないし、今も存在しないのだから。憲法や時間やわたしやわたしたちが、もはや「2」と「1」からなるのでなく、ある意味では遙かに複雑で、ある意味では遙かにシンプルになる。そうした理論と実践を狙おうと気付いたことを、この4週間の成果としたい。

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